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2005年3月

2005/03/30

多チャンネル考

唐突ですが、実は私は新聞というものをあまり読みません。
なぜかと言えば、そこに書かれた情報を信用していないからです。

特に、政治・経済欄。
政治欄は権力者の動きを中心に媚び諂う動向記事ばかり。
経済欄はプレスリリースの垂れ流しと経済評論家による、人間の血が通わない解説ばかり。

そんな時、「メディア裏支配」という本と出会いました。これが面白い。
今、日本の放送局をIT企業が買収しようとしているが、この本は、それとはまた違う角度から、現在の日本のテレビ・新聞社の系列化の弊害や、メディアの罪悪について書かれています。

世の中には色々な情報があり、価値観も多様です。しかし、皆が同じような消費行動を取り、同じような生活スタイルをし、同じような喋り方をするという、この貧困なる文化を作り上げたのは、テレビを中心としたメディアであったということに気付かされます。「報道の客観性」「中立」とか言うが、それは全くの幻想に過ぎない。
右から左に至るメディア媒体は、それぞれ政治権力の思惑ですべて情報が作り出されるということが分かります。

ところで、現在のテレビのチャンネルは、すべて新聞社系列で独占されています。
しかし、どうして、ケーブルテレビとかCS放送が自由化され、それこそ500チャンネルを見ることが出来るようにならないのか。コンテンツが足りないからか。いや、そんなことは無いはず。

つまり、多チャンネル化・有料放送という、放送の自由化が行われると、一番困るのは彼ら既存のテレビ局だからです。多チャンネルが可能になれば、事実をすべて、ありのままに放送によって流すことが出来るのです。

500チャンネル、有料放送となれば、色々な分野の情報が、くまなく、常時閲覧出来ることになります。
国会中継、審議会、裁判、スポーツ、地域イベント、詩人の叫び、アマチュアバンドのライブ・・・それこそゴマンと情報発信が可能になります。

NHKの受信料を支払うよりも、また民放のタレントどもが騒ぎモッタイぶったCM導入演出とかやっている安い番組を見るよりも、例えば「加入定額制・3000円/月」にすれば全てのコンテンツを見る権利を得られるという仕組みにした方が、確実に日本人の民度は上がると思うのですが、いかがでしょうか。

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2005/03/24

建築解放 まずはその①

このブログを始めてから、色々な方々から真摯なご意見を頂くようになりました。
週に2~3回の更新を目指して開始したブログですが、この場を借りて、「ありがとうございます」と御礼させていただきたく思います。これからも、もっと過激に張り切って行きたいと思います(笑)。

さて、今回は「建築解放」というタイトルで、「施主が建材を選ぶ時代」について、触れて見たいと思います。
本当は、「選べない理由」ということが重要なのですが、そのあたりもぼんやりと触れていければと思います。
そして、「思想」がいかに重要かという点も、触れて見たいと思います。

最近では『施主支給』という言葉があるのはご存知でしょうか。
例えば、システムキッチンと洗面化粧台とか、主に水回り関係の設備建材を、施主自らがショールームなどで選択し、住宅のプランの中に入れていこうというものです。工務店や建築家が、施主を連れてショールームに行って、「これがいい」「あれがいい」と言って選んでいく方法です。

リフォームのビフォーアフター番組や、数多くの建築雑誌の影響で、夢のマイホームを施主も一緒に参加しようという方向が目立ち始めてきているようです。また、スケルトン・インフィル的な発想の住宅が増えてきており、内装は別途予算を立てて検討するといった米国方式、中国方式のようになってきています。

しかし、いくら『施主支給』とはいえ、建材・設備はあくまで設計の話であって、施主が設計までコミットしなければ自由な建材選択などは不可能であるということも言えます。実はここに、建材商社や建材店、そして工務店がプロであり続ける存在意義があるわけです。

彼らが設計能力を保持し、図面を握っている限り、施主は自らの積算や建材選択は目の届かない分野となってしまうのです。つまり所詮、設計は素人であるということが言えるわけです。
同時に、現在の請負制度に基づいた建築金融が、施主がスケルトン住宅性能を担保にしたノンリコースローンのようなもの、あるいは職人への直接的出来高払い融資制度が出来れば(第三者監理による)、工務店へ一括して建築資金を預けるようなリスクを負わずに済むわけです。

これが、実は現在の設計士などが第三者監理の立場から施主に代理人となり、設計・施工・金融保証までサポートしようという「消費者エージェンド方式」と呼ばれる建築システムの基本的な考え方なわけです。

こうした方向性は、真の『施主支給』に向けて、革新的なサービス業態を生む可能性が高くなってくると考えられるのです。

以下、仮定として、今後の方向性を記してみました。

■仮説
サッシの形状や機能、断熱性能、耐震性能などといった観点から的確に建材を施主が選択できるようになれば、もはや設計事務所は必要なくなる。
その結果、一般消費者が建材を自ら選ぶ文化を作るための、新たな「建築解放運動」(なとん大げさだが・・笑)が起こる。
■その予兆
「素人のための見積講座」を開催する建築事務所がある。ここの建築事務所は、的確にプロの業者と対等に渡り合える素人の育成に力を入れている。その結果、実際にブラックボックスの「一式見積」を下げさせることが可能となる。
「住まい塾」のような形で、「素人」に対して直接受注に結びつかないことも前提にして、住まいの知識教育を行うプロデュース組織が数箇所立ち上がり始めている。
■ビジネス化のポイント
「素人」に対し、自らが設計と積算の最低限の知識を蓄えることでプロと対等に渡り合えるということ、そうしたこと自体が「代理人的請負業」として可能となる。

■住宅業界への影響度
上記のような仕組みが確立すれば、世の中の建材価格やカタログ類は、施主主導で作りかえられることになる

■既存業界の対応策
工務店、建材メーカー、建材流通が存在意義を持ち、生き残るには、こうした設計・積算の仕組みを施主とともに共有することしかしかないはずである。

つまり、こうした既存業界各層自身が、「代理人請負業」として業態拡張するしかないということではないでしょうか。施主に対して建材の知識を教育するような地域機能を持つべきであり、こうした賢い施主を育てる必要があると考えられます。つまり、例えばプロ業界内での工務店に対する提案、問屋に対する情報提供を求めるだけでなく、自らが施主に対して教育システムを構築すべきであるという、極めて単純な考え方にならざるを得ないわけです。

具体的な事例があります。
それは、工務店が意識のある施主を捕まえようと戦略的に動いた例として、外張り断熱工法を普及させた「いい家がほしい」のような運動である。これは賛否両論がある事例ですが、思想普及のベクトルだけを見た場合、「明確な指針」を出して、施主を明確な「家づくり思想」へと導いたマーケティング手法が、極めて素晴らしいものだと言わざるを得ません。

それと、最近では「ドームハウス」というものが出てきました。これも、ログハウス的なファンを獲得しそうな感じで、面白いです。

こうしたヒントは結構転がっています。
これらと同様に、地域のプロの方々がどういう「明確な思想」を掲げて、「素人」をそこへ導くのか―今後の住宅供給者サイドの戦略として有効であると考えられるのです。

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2005/03/21

「ゴミ」が商品に

近所の庭に植えてある梨の木を使って小さな障子を作ったら、大変に喜ばれたという話を、先日、ある建具屋さんから聞きました。梨の木を処分しようとしていた人は、その他にも庭にある木々をゴミとして扱っていたのだが、まさか新品の建具になるとは思っていなかったようで、随分と感心したそうです。

建具屋さんは、ご存知のように襖とか障子、ドア、欄間などを作る人たちですが、最近は和室の減少・真壁の減少によって、活躍の場が少なくなっている業種です。また、ドアなども建材メーカールートの方が主流となってしまい、建具屋さんからの提案はよほどの営業力がない限り、採用されるのは難しくなっていきました。

しかし、地域の材料と技術で家を建てたり、家をメンテナンスしたりといったことが、何となく既成の住宅作りに飽きた人々によって見直されようともしています。

「色々なインテリア雑誌とか建築家のおしゃれな本が売っているが、建具の素晴らしさを分かってもらう雑誌と本は売ってないものね。何とか、売れないものなのかな」その建具屋さんは私にそう言いました。

そして、そういう思いを持っている若い建具屋さんは、きっとどこかにいるはずだ、とも付け加えました。
「そういう人たちを探して、結びつけていくのが、これからの君の仕事だと思うよ」
と言われて、ふむふむと共感。

意外と一般の人々が知らない、木の活用方法を、建具屋さんはその経験で知っています。
「まさか梨の木でこんな障子ができるなんて・・」それだけでも、百言を有する営業トークよりも、説得力があると思いました。

数多くのアイデアや発想を集めれば、きっと建具職人によるオリジナル商品集ができるかもしれない。
果たして、どんなものができるのか。早速編集部内に諮ってみることにします。


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2005/03/16

価格は一緒・・・

こないだの日曜日に、北関東で建築家コンペによる家づくりを取材してきました。

建築家コンペは、一般的に平均的な住宅の購買層をターゲットにした場合、とても敷居が高いようなイメージがありますが、予算は土地を入れて総額3000万円程度の、一般的な分譲住宅を買うくらいの価格で対応出来るというものでした。

建築家の一人はこう言いました。
「我々はローコスト物件の設計も手掛けているということを、意外に一般の人は知らないのですね」

そして、施主の住宅選びの選択肢として、土地なしで、高額物件は大手ハウスメーカー。土地を所有している場合、さらに資金的な余裕もある場合、完全注文建築で建てたいから、建築家に頼む。
しかし今回の取材で、そうした構図がだんだんと崩れていることを実感しました。

今では工務店に依頼する場合、その工務店の信用や腕、保証などの不安を抱えるケースも多く、第三者的な住宅プロデューサーの存在は、若い施主にとっては大変心強いということでした。

そして、一番面白かったのが、その建築家が普段どのような情報媒体を読んでいるかということです。
高尚な建築雑誌などを読んでいるかと思いきや、さにあらず。
それは「月刊PEN」であったり、「ブルータス」「東京人」とか、自分のイメージを膨らませてくれるような媒体だそうです。

「一番知りたいのは、住宅建材の、本当の情報です。本当の情報というのは、どこで、どんな建材が売っているのか・・・。その建材は、どんな機能を持っているのか、様々な角度から比較検討出来る情報の場が欲しいですね」

その建築家はジョイフル本田のようなホームセンターに足しげく通っているそうです。
そしてインターネットの情報の欠かさず調べているそうです。

企画住宅のような建材スペックインによる住宅提案とは対極をなす、建築家の住宅。
しかし、結果として住宅の販売価格は、企画住宅も建築家住宅も変わらない現実がある。

さて、あなたなら、どっちが良いですか?


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2005/03/10

ひらめき

今日は午前中、猛烈な眠気を抑えて電話・原稿・電話、そしてまた原稿・・午後は勉強会の取材で永田町へ。
いったいこんなに原稿ばっかりワープロを叩いて、誰が読むのかいな??なんて思いながら、もう半分以上、作業になってしまいました(反省)。本当は、作業にしたら駄目なんですよね。文章を作るのも、ものづくりであり、家づくりと一緒なんだと思うのです。そういう意味で、いかに僕は“欠陥住宅”を作ってきたのだろうと・・(笑)

ところで「記事を書く」とか「小説を書く」とか言うじゃないですか。
だけど、僕はその言い方は、嫌いです。「書く」って言葉、僕も気軽に使いますが、本当はあえて使うとすれば、「記す」と使いたいのです。
なぜなら、書いているのではなくて、「指で叩いている」からです。
詩とか小説とか、日記(自己省察)を「書く」ときは、絶対にペンとノートですよね。実際、緊張感が違いますよ。

子供の頃、作文とか感想文を書く時、書き間違えをしないように、最初にチラシの裏なんかに、全体のプロットをスケッチする。起承転結のようなイメージを、予め下書きしましたよね。それから、その構図を眺めながら、頭の中で文章と情景をイメージしていく。一行目にペンを入れる時の緊張感って、たまりませんよね。つまり、「書く」ということは、想像力をフル回転させつつ、プロットを別に描くというダブルの作業をすることになるわけです。

「書く」という作業は、こんなにも崇高であり、とても想像力の鍛錬を伴うキツイ労働なわけです(笑)。
それに比べて、指で叩いて、構文だとかプロットだとか、あとからいかようにも書きなおしが効くことの、楽チンさといったら、こりゃ天国ですな~(汗)

この「指叩き」という作業は、やっぱり人間の想像力を奪っているとおもうのだけど、どうなのでしょうね・・・。
そんなわけで私も、指叩きする時でも、「書き写し作業」的なもの以外は、必ずプロットをノートに書き出して、それに沿った形で指叩きをするように習慣付けています。

そのプロットが原案通りに行かずに、大幅に構想がずれていくということも、また文章とか想像力の醍醐味なのだと思います。

そしてその原案構想と進捗過程における想像の「ズレ」こそ、表現手段における「差異」であり、偉大なる文豪が使う「ひらめき」という奴の正体なのだと、思うわけです。

おっと、今日はリバースモーゲージについて記そうと思っていたのだが、明日にします~
思いっきり、ズレでしまいましたっ♪

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2005/03/09

究極のコスト

いやはや、なんとも夜更かしが続く、エンドレス状態です(笑)~
さっきまで記事を書いていて、ふと、「モノの値段って、一体何なの?」って、思考停止状態に陥ってしまいました。
どうも、今日も眠れそうにありません。

究極の値段と言ったら、皆さん、どう考えますか?
例えば、うちは「他社より安い」とか、「業界で最安値」とか、色々な宣伝文句があって、実際にそれをウリにした商品やサービスが、我々の記事になったりするわけです。

私が考えるに、究極の値段と言ったら、それは「無償奉仕」ですな(笑)。
まさしく、無償奉仕こそ、私利私欲を一切排除した、神業となるわけです。

「そんなぁ、それじゃメシ食えないじゃないの~?」と言う反応は当然ですよね、しかし、実際の世の中では、この無償奉仕による経済活動が至るところで展開されているわけです。

無償奉仕とは、サービス残業とか、そういう類のものとは意味合いが違います。
「俺はやりたいから、やる」とか、「今日は気分が良いから、引き受けてやるよ」
そんな無償奉仕に支えられて、人々は生きている。

具体的には、こんなことがあります。
■例①
「業開最安値の○○サービスを展開!」などという激安店舗があるとします。
例えばパソコンでも何でも良いのですが、ともかく商品が安かったとします。
しかし、友達が「2万で譲ってやるよ」と言えば、それは激安店舗よりも何倍も安いコストで調達出来るわけです。

■例②
それとか、音楽CDもそうですね、中古ショップで「うわー、200円で売ってるよ~」とか、「新譜が2000円かあ、安いなあ~」などと言っても、音楽好きの友達が「もう聴いたからあげるよ」と言えば、それは何より一番安いコストで調達できたことになるのです。

これは、あくまで友人関係の話です。
しかし、実際の億単位のビジネスの世界でも、これの延長線上に物事が動いているわけです。

「中国との独自のパイプ」(笑)とか、「独自のコネクションで・・」とかいう場合、だいたい、本人はその世界に精通した「友達」を持っている。なんかしらの、お互いの利害関係とか利用価値とかがあって、「顔が効く」が通用する世界になる。そこで、無償奉仕のメカニズムを利用して、大きなビジネスチャンスに換金するわけです。

だから、そういう世界にいるプロの人たちから、我々の発信する「業界初」とか「激安価格での提供」などという情報発信は、半分以上信じてもらえないし、「だまされてやがるなあ~」とかいう反応が予測出来るのです。

そういうわけで、無償奉仕・・・これは本当に侮れないと思います。
そういうわけで、これらの無償奉仕コストをトータルで計算したら、日本全体でいくらくらいになるのかなあと、考え始めてしまいまして、今日も眠れない夜となっているわけです(笑)・・・


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2005/03/05

「ババ」

もしかすると、我々は「ババ抜き」をしているのかもしれません。

住宅業界ではパワーゲームと名の付く「ババ抜き」トランプに興じ、短期的に金にならないことには、まったく興味は示さないという経営者が、大変に多いことに気付かされます。

それは、中小の住宅関連企業の多くが、一族による経営であるということが、一番の原因であると私は確信しています。

一族・自己繁栄・・これが「組織の目的」となり、企業のカラーとなります。
こうした企業には代々受け継がれた資産があります。その資産があるから、信用が生まれます。
しかしその信用は、社会的な信用というよりも、個人的な信用となります。本当は、色々なところから軽蔑や嫉妬も受けるが、何せ力を持っているので、人々はみんな言うことを聞きます。

自己繁栄に優れた経営者、これが日本の住宅業界における「勝ち組」です。これにはきっと、例外はないと思います。自己繁栄は必ず、その企業に富をもたらします。

しかし、こんなもの、その世界だけのことであって、日本の生活者にとっては何の関係もないことです。
富と信用を築くためには、例えばメーカーにしろ流通にしろ工務店にしろ、「人より安く仕入れて、人より大量に売る」ことを日常的に徹底すれば、よほどの低能の経営者でなければ、いとも簡単に富は築き上げることができるでしょう。

しかし、そのようにして自己繁栄によって築かれた富は、ゆがんだ日本の住宅の世界を間接的に作り上げていると言えます。

先回、、大手ハウスメーカーのことを記しましたが、彼らの方がむしろパブリックな企業体としてのイメージを大切にしています。彼ら大手が「地域のブランド」を笑う(失礼・・!)のは、それらのブランド理念が、実は哲学も思想も無い、ただの自己繁栄ブランドだと見抜いていることを意味しています。だから、彼らはそうした自己繁栄システムには、何の恐怖感も感じていません。

その一方で、“自己繁栄向上コンサル会社”などは、「入れば必ず純利益30%は取れる住宅FC」とか「100万円の投資で必ず受注が取れる●×パッケージ」とか、色々なものを手を変え品を変え、自己繁栄経営者に売りつけてきます。そうして手に入れた「ババ」を、利益を上乗せして次の自己繁栄企業に売り付ける、さらに、次へと・・・。
ババ抜きのようにして陳腐化した自己繁栄ツールの多くは、工務店の机の中や流通店の棚の中に眠っています。

商売上手だと評価される企業は、「ババ」をうまく処分した企業となるわけです。いわゆる、「売りぬけ」ってやつですね。だから、スピードが求められるわけです。「ババ」はすぐ陳腐化してしまうから、スピード・機動力が勝負なのです。だから、決定が早く、決断が早い経営者が、最も評価されるという構図です。

しかし、よく考えると、こんなことをしてどうしようと言うのか。

「日本の住宅をよくするためには、どうするか」
「日本の建材を、国際的な健康・安全基準のスタンダードにして行こう」
「日本の建材を、どのようにして資源循環社会に対応できるものにするか」

こんなことは、現在の自己繁栄企業は、本気でなんか絶対に考えていません。

では、「粗利30%保証、絶対に儲かる住宅システム」などという「ババ」を、仮に工務店がうまく売りぬけるとしたら、誰に対して売りぬけるのでしょうか。その答えは、もはや明確ですね。そうです、我々消費者に他なりません。

我々は「ババ」を掴まされるわけです。

ただ、フォローするわけでは無いですが、百歩譲って、その「ババ」とて、一応プロがしっかり作ったものであれば、安心して住めることができます。

しかし、実際はどうでしょうか。外壁は、どうですか。屋根材は、50年以上持ちますか?サッシは、取替えが効きますか?内装ドアは?フロアは?・・・・・

コストダウンにコストダウンを重ね、そのコストダウンを行った分だけ利ざやが抜かれて「ババ」となった建材の寄せ集めによって建てられた家に対し、我々は人生を賭けてナケナシノ金を支払って、一生を終えるのです。


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2005/03/04

ソフトの訴求ができるか

とある大手設計会社への取材で、免震工法と耐震工法、制震工法の違いについて教えていただきました。
コスト面を比較すると、耐震を1とした場合、制震では0.5割増、免震では2割増くらいの比率になるそうです。

建築面積が増えれば増えるほど、免震工法の場合はコストが下がってきます。つまり、地面は限られた面積なので、階高が増えて延床が増えるほど、全体の建築コストの分母が上がるからです。

しかしこれはビルやマンションなどの大型物件の場合。戸建て住宅の場合は、分母はある程度上限が設けられてしまうため、2割増のコストはそのまま建築費用として大きな負担となってしまうということでした。

さて、この免震工法、現在、大手ハウスメーカーではその効果と安全性能をアピールし始めていますが、これは中越地震の影響が大いにありと予測することも出来ます。しかし、中越地震が起きる前から、実は今年始めからの免震工法住宅のPRは予定していたというのが真相です。省エネ・環境と安全(防犯)性能は、今年の住宅メーカーにとってすでに大きな訴求テーマとなっていたのです。

これに対し、中小工務店はどうしているかというと、未だに「次世代省エネ」「高耐久性能」「性能表示高等級取得」といった“技術面”が訴求の中心にあるようです。しかし、これは大手ハウスメーカーの住宅では、すでに標準採用となったおり、もはや差別化の訴求ポイントにはなっていないというのが実際です。

ハウスメーカーへの取材の結果、現在彼らが何を志向しているかというと、それは以外にも、「ブランド力」ということでした。これは、本当に以外でした。なぜなら、散々中小工務店は「地域での住宅供給」などといった眼目を掲げながら、「大手では出来ない地場の技術と手作りオリジナリティ」といった点をアピールしつつ、大手のブランド力への批判的アピールをしていたからです。

「消費者は賢くなった、もはや大手のブランドにはだまされない・・・」と。

しかし、大手ハウスメーカーは、これからの住宅の訴求ポイントは、「ソフト」なんだと、いう立場です。
ソフトとは、企業理念や、企業哲学に他なりません。
これを形成するのが、実は「ブランド力」だったのです。

では、中小工務店のブランド力とは、一体どういうものなのか。
それは、やはり企業理念で示すしかないように思います。しかも、それは一社のみならず、やはり地域の住宅供給共同体の形で、ソフト面での投資に力を入れるしかないように、思うのです。

「工法・技術は完璧で当たり前」
つまり、その先の“地域”というブランドを確立するために、大手の戦略を良く研究しつつ、自らのアイデンティティを確立する運動体へと、事業の幅を広げていくような動きが出来れば、少し風向きも変わってくるように思えます。

免震工法も戸建住宅でなかなか普及しないのは、政策的バックアップがないということはもちろん、何よりもその導入を「差別化要素」として、一社単独で考えるからではないでしょうか。

街全体で、「安全の街区」といったテーマに基づく地域住宅供給者のコラボによるコストダウンを図り、企業の枠を超えたコラボによる共同のPRをすることも、必要なのかなと、ぼんやりと考えています。

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2005/03/03

利便性を保証する村八分社会

今日は「利便性」と「コスト」についての話です。

■利便性とコスト?
我々の生活は、農薬と化学肥料のお陰で豊かになりました。
農薬と化学肥料があったからこそ、どんどん食卓やレストランには色々な食材が並び、それも皆んな新鮮でツヤツヤ・ピカピカしている。

農薬や化学肥料を使わない農法による食材は、実際に高い。
だけど、そこら辺で売っている農薬食品は、「安い」と言っても、それほど安いわけではない。
500円が300円になっているくらいの、「安さ」の話です。

この200円の違いを、利便性とか「コスト」の問題とか言って、何も手を付けずに毎日を過ごしているのが、我々の生活なんだと思います。

■パブリックサーバント?
日本の住宅業界のパーティーなどに行くと、官の方々に対する業界の方々の、媚びへつらうかのごとく異常なまでの腰の低さに、唖然とさせられることがあります。
これは何を意味するかと言うと、業界サイドは中央集権の権化である担当官に対して「何かを期待している」ということの裏返しに他なりません。
さらに、担当官系列の特殊法人に存在する影響力ある人物に対する、これまた異常なまでの尊敬の接し方。

こうした業界は、官に対して、例えば「建築基準法」の矛盾点を突いたり、「地球環境に対する施策的な要望」について強硬に主張して、住み良い街づくり家づくりをするための行政にして欲しい!などとは、これっぽっちも思っていないということです。

これは、業界自体がすでに支配層の一端として組み込まれていることを意味しているのです。
つまり、業界は行政サイドにずっとくっついていたいという、「仲間意識」の裏返しなのです。

こういうメンタリティを、「既得権益」と世の中では定義しているようです。

つまり、安全で安心な住まいを提供する側である「業界」は、例えば「地球環境」のことなどを口にした途端、自分たちの商売が成立しなくなってしまうという、根本的な存在意義の喪失恐怖に晒されているというわけです。

■コストは絶対に守られる!
さて、この日本と言う国を動かしているのは、上記のような「既得権益」の業界集団による経済システムです。つまりこれは、「民による官の代行業」と換言できます。

既得権益集団が、「全体の理念は理解出来るが、ウチだけは見逃してね・・・」という意識構造にあるのが、今の日本経済なのです。

「他のは規制していいから、うちだけ農薬を使えるようにして欲しい」
「他のは規制していいから、うちだけco2をたくさん出しても許してね」

そういう経済の下で働いている歯車たる我々「消費者」とて、
「上がやっていることだから・・・」
「みんなやっていることだから・・・」
「ウチだけ正論を主張して、うちだけが村八分になるし損をしてはつまらないから・・」
と言って目を瞑ります。

「利便性」という言葉は、そうした意識の置き換えの言葉です。
その結果、目先のコストはどんどん下がっていきます。業界も過当競争で当然に苦しくなります。

消費者は、その結果大切なものをどんどん失って行きます。
自然、安全、治安、職、お金、山、川、そして健康・・・
そうした喪失物を紛らわしてくれるものが、「利便性」であり、今の経済では、そうした「利便性」の商品をいかに回転良く回していくかが、各企業の最重要課題となっています。
コマーシャリズムとCG技術の目くらましで、どんどん慰めの消費を強いて行く、そして我々も、それを麻薬のように求め続けていき、喪失感を誤魔化し続けていくわけです。

まずは、農薬をやめて、食物を栽培し収穫し、摂取すると言うことが、いかに大変で崇高なことであるかを、認識することから我々の充実した生活文化は確立できるのではないでしょうか。

同じファシズムの道を経験したドイツが、今それを教えてくれているではありませんか。

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2005/03/01

リン

知らない間に、数多くの有機リンを我々は体内に蓄積しているのかもしれない---

NPOの勉強会で、有機リンが原因だと思われる体調の悪化症状を訴える方の実際の体験談を聞く機会を得ました。
有機リンと聞いて、一番想像しやすいのが、「農薬」です。街中にある畑や、地方の農業では農薬が作物に撒かれています。また、ヤスデや松食い虫など害虫を駆除する薬剤が、今でも分譲地の街路樹や団地の公園などでは平気で散布されています。

空気中で摂取する場合と、食物から摂取する場合と、それぞれの経路を辿って、ここ30年間くらいか、確実にその時代を生きた人々は体内摂取をしている訳です。

イライラ、キレやすい、不安、忘却といった神経症状の原因にもなっているかもしれないし、またシックハウスを発症させる原因ともなっている可能性があります。ホルムアルデヒドは、そうしたリンの蓄積による「火薬」に火を付けるマッチのような存在なのかもしれません。

実は、こうした有機リンの有害性については、10年前にその危険性を指摘する書物も出されていることを、知り合いの女性の方に教えていただきました。それを読んで見ると、なんと1970年代からすでにホルムアルデヒドの危険性は指摘されており、行政が野放しにしてきたという年表が書かれています。同時に、有機リンについても、ホルム以上に危険性の高い化学物質として、対策が必要との指摘がなされていたのです。

しかし、現在は有機リンは野放し状態で、ホルム規制だけが対策法として住宅建材に義務付けられているにすぎません。

「イライラ、頭痛、倦怠感といった神経症状については、動物実験では証明できないよね。ラットが頭痛を訴えるわけでもないし。そんなこともあって、神経症状については認知が進まないのではないかな」と、書籍を紹介してくれた女性の方は言っています。
これは、なるほどと思いました。

さらに農薬の世界、それは農業問題のダークサイドの部分にも通じることなのかもしれません。穿った見方をすれば、農業の世界で何か有機リンの存在について触れられたくない問題があるのかもしれないのでは・・・

ちなみにアエラの今週号では、この有機リンの問題が特集記事となっていますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。私は、明日買って読もうと思っています(おそい・・・)。

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