夏の終わり
夏の終わりに
風を感じると思い出す人がいて、思い出す場所がある
深く自分の心の奥に張り付く、粉々になった思い出のカケラが
砂塵となって吹き荒れる
季節の変化を知らせる風が、色々な出会いの記憶を呼び覚ます
今がすべてと語りながら、焦燥は止まない
未来の暗示を根拠なく確信しながら、過去に因果を探る
夏の終わりは、今年もまた何もなし得なかったと、
気付けば悔いてばかりの自分を発見する季節である
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夏の終わりに
風を感じると思い出す人がいて、思い出す場所がある
深く自分の心の奥に張り付く、粉々になった思い出のカケラが
砂塵となって吹き荒れる
季節の変化を知らせる風が、色々な出会いの記憶を呼び覚ます
今がすべてと語りながら、焦燥は止まない
未来の暗示を根拠なく確信しながら、過去に因果を探る
夏の終わりは、今年もまた何もなし得なかったと、
気付けば悔いてばかりの自分を発見する季節である
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盆休みも終わり、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私は、11、12日を休みとする変則的な日程で休日を過ごしました。
13,14、15日は仕事をして過ごしましたが、都内はとても過ごし安く、仕事もなんとなくリラックスして行えた様な気がします。
で、先週は海に行って来たわけです。
勝浦と鴨川、そして帰りは安房・鋸南の市場へ。

(勝浦海中公園の岩場。遊泳禁止とのコトですが、みんな泳いで遊んでいます)
ところで・・・
今、桜はすごくハングリーではありません。
魂が、錆び付いている感じです。
どうしてでしょうか。
答えは何となく分かっています。
まずは、最初に出会った場所・組織が、解散してしまったということ。
その衝撃と、自分がその泥舟に最後まで同船せずに下船してしまったという事実。
そのため、それはそのまま自分の人生を生きていないような感情を思い出させます。
何か、自分がとても大きく裏切ってしまったという、感覚。
ちなみに、人間は色々なものが満たされてくると、「不幸になりたい」という不思議な感情を持つ動物だそうです。
不幸な時には、不幸になりたくない。幸せなときは、なんだか落ち着かない。
自分の人生とは、なんでしょうか。私は、まだ自分に自己執着している。
これが、もっと解放されるようになると、もっと楽に生きられる、いや、楽であるという状況、そして幸せである自分に対して罪悪感を感じなく生きられるようになるのかもしれません。
私には、自分は不幸だと思っていたフシがあります。ずっと、不幸だと思っていました。
今でも、まだまだ、足りません。
もっと自然が欲しい、もっと人とのふれあいが欲しい、コミュニケーションが欲しい・・
幸せへの追求は尽きません。
でも、そんな感じで良いのだと思います。
どんどん幸せを追求して、良いのだと思います。
それが自分の人生を生きるということなのだと、思います。
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ある会社が、終焉を迎えようとしています。
法人であれ、個人であれ、その最期をどう迎えるかと言うことは、大きなテーマの一つなのかもしれません。
ただ、法人の場合は、終焉を迎えても、そこで働く人々の人生は、終わったわけではありません。
これからも、生を過ごしていかねばならないのです。
物事には、必ず、終わりがあるのでしょう。
ちょっと、ネットで検索して、「死」に関する名言を拾ってみました。
●いくら長生きしても、最初の二十年こそ人生の一番長い半分だ。byロバート・サウジー
私も、30を過ぎてからの時の経つ早さに圧倒されています。
数えてみると、20才の頃から、すでに20年経過しているのです。
そして、その20年があっという間だったので、これからの20年も、おそらくもっとあっという間に過ぎていくのではないいかと、思います。
●あたかも良く過ごした一日が、安らかな眠りをもたらすように、良く生きられた一生は、安らかな死をもたらす。byレオナルド・ダ・ビンチ
このコトバ、とても気に入りました。毎日を満足に充分に生きること。
これの集積が、よく生きられた一生ということなのかもしれません。
さて、では充分に生きるということは、どういうことなのでしょうか。
それは、危機的状況が訪れたときに、しっかりと悔いのないようなケアを施すことなのではないでしょうか。
小さなことを、大切にして、ひとつひとつ積み重ねていくことなのではないでしょうか。
自分の夢に怖じ気つかず、人の目を気にせずに、やっとみるということなのではないでしょうか。
●人は死ぬ瞬間までも、もしかしたら助かるかもしれないと空想し得る力を与えられている。
by武者小路実篤
自分に迫る危機に素早く気付くことは、才能なのだと思います。
私は、いわゆる「尻に火が付くまで動けない」タイプなので、こうした危機には鈍感です。そのくせ、直前になって、思いっきり後悔したり、バタバタしたりして、なんとか帳尻を合わせようと必死になります。
多分、この「もしかしたら助かるかも」という淡い期待は、最期の最期でも、おそらく自分は「尻に火が付くまで動かない」と、思ってしまう言葉です。
つまり、「死にたくない、やっぱり死ぬのは嫌だ~」といって、直前までもがき苦しむのかもしれません。
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タバコをやめてから、はや3ヶ月。
いまはすっかりと、ニコチン中毒から脱出した感じです。
しかし、気付いたことがたくさんあります。
それは、
歩きタバコの多さ
そして、臭いこと。
電車の中、店の中、路上・・・ありとあらゆるところで、タバコの臭い人とかがすぐに分かるのです。
特に、歩きタバコは、本当にきつい。
すれ違うときに、息が出来ないくらい、オエッとむせる感じの臭さです。
今まで、自分がこんな臭いものを発していたことに、反省です。
そして私は、無神経にも、歩きタバコの常連でした。
いろんな人に不愉快な思いをさせていたのだなあと、反省っす。
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エレファントカシマシの新譜が昨日出ました。ituneでダウンロードしてさっきから聴いています。
円熟味が出てきた気がします。
同時に、少し「売れ筋」を意識しつつ、でも全部が売れ筋ではない、という意地は通している、という感じがしました。
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ウサギさんをどうしても触りたい~
という目的で、軽井沢の「タリアセン」へ。なんと、ここがとてもよいところ。
イングリッシュガーデン、フランクロイドライトの歴史的建築物などがあり、しばらく時を忘れて散策しました。
(美しい散策の道が続いています)

(ホームページによると、『旧帝国ホテルの設計で有名な建築家ライトのスタッフとして来日したA・レーモンドが、昭和8年軽井沢南ヶ丘にアトリエとして建てたもの。現在は、ペイネ美術館として再生』とのことです。知らなかった~でも鮮やかできれいです)
【本命のチャッ君♪】
さてさて、いよいよ本命のチャッ君です。
なんと、この子はタリアセンの券売機がおうちだそうで、昼間は外で泥まみれで遊んでいます。
ホント、コミカルで笑える。
では、チャッ君劇場です。
おいでおいで~をしていると・・・・

(というわけで、なでなで~♪体は雨でビショビショです。大丈夫かよ、チャッ君~)
どうして「チャッ君」かというと、茶色だかららしいのです。
そして、他のウサギさんたちのいる遊び場では一緒になれません。中に入れると、ケンカして負けてしまうからだそうです。
それでも、仲間と遊びたくて、一生懸命、サークルの中に入ろうとして、穴をたくさん掘っています。
穴堀りすれば、中には入れると思っているのでしょうね。
けなげです。

で、おまけ。
これがチャッ君の赤ちゃんの頃の写真です。全然違いますね。
仲間とケンカして、顔がはれ上がって行ったみたいです。
ちなみに、タリアセンのスタッフの方は、とても優しい方でした。
ウサギ好きという感じで、里親を募集しているとのことですが、「ちゃんと自由に遊ばせる環境があって、本当にウサギを愛してくれる人に貰って行ってほしいです」と話してくれました。
桜は、チャッ君はこのままが一番幸せだと思いました。だから、里親にはなりませんでした。
そのかわり、11月下順にも、また会いに来ることを約束して帰ったのです。
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《近況1》
突然ですが、引越しました~。
東京の某所です。とてもよいとこです~。
ピョンちゃんと、新しいピョンちゃんのお母さんも一緒です~
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
《近況2》
出張の帰りに地球温暖化関係の本を一気読み。
アルキメデスの原理からすると、北南極の氷が解けて海水面上昇は間違いだという話。
なるほどと思いながら、情報の怖さを実感。
ひとつの事象が伝達される時には、伝える側は何らかのバイアスを掛けることはコミュニケーションの手段であるかとは思います。まったくニュートラルな情報伝達などというものは、その媒介手段が「言葉」である以上、あり得ないでしょう。
ウィトゲンシュタインですよ。圧倒的な情報の前には、「沈黙」なんです、結局。
《仕事》
・工務店の上場をサポートする社長と、長年住宅FC拡大の推進役を担ってきた社長とを引き合わせる会を企画。
背景には、工務店経営者の「質」が変わってきたということ。いや、もっと正確に言うと、「工務店」はすでにない。
「経営者」が工務店をやる、という時代。脱サラした社長が資金調達の際に銀行の渋さをトラウマを持ち、やがては市場から直接金融で調達することを志向するという構図。
経営意欲は、トラウマから生まれている、という事実。人間の成長の原動力は、別にだいそれた理念などを最初から必要としない。
女にもてたいから、ギターを始める。スポーツを始める・・・・
ビジネスもそんなものだと思うと、どんな野心家である社長を前にしても、動じない自分を発見するのでした。
では、またちょくちょくと更新していきまーす♪
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『あなたの会社の内部にも、あらゆる規模とあらゆる種類の機会が存在して、あなたを待っているはずだ。
それを掴むことだ。情熱を持つ、やる気満々の人材をその事業のリーダーに配し、出来る限りの経営資源を与え、酸欠にならないように酸素を送り続ければいい。』(ウェルチ著・ウィニング勝利の経営)
最近気付いたことですが、「感性」っとものは、そもそも「ぶれる」ものだという気がしています。
私がこの半年間で出会った経営者の中で、一番尊敬できるもの、それはおしなべて彼らの「ぶれない」ハートでありました。
モチベーションが高い状態での色々な出会いは、選択肢が枝葉のように分かれていて、いずれもそこには未知の可能性を秘めた花のつぼみが付いているように見えます。
きっと、惰性の生活では見えなかったのだろうと思う、そのつぼみを、どのように育てようかと考える時間。
スピードの中でしか、見えない所なのだと思います。
今日、後輩である猿渡君と話をしました。
彼は、いいました。
「最近は、楽しい仕事で忙しい、充実した生活を送っています。すると、以前よりも時間がない割に、遊べる時間が増えてきたんですよ」。
私は、彼の口から、この言葉をずっと待っていたんです。
この境地を、まずは気付いて欲しいと、実感として分かってもらいたいと、そう願っていた。
この境地は、悩みと苦しみと迷いを経た上でしか、実感として辿り付けない場所だと、確信しています。
お金、名誉、地位、そんなものではない、経済社会人としての、自我の確立。
彼は、そんな自分にとって充実した生き方の答えを、ほぼ見つけたのだと思い、私はとても微笑ましかったのです。「たくさん悩んで、良かったね」。彼の苦悶をだれよりも知っていると思っているだけに、今は素直に、そう言ってやりたいのです。
翻って私は、ずっと自分の内なる「俗物根性」との戦いをしてきました。そして、「名声欲」との戦いを、ほぼ克服したと思っています。
しかし、俗物根性の表出物である「名声欲」、それは現在、私にとって、新しく姿を変えた形で再び、我が身を襲おうとしていると、最近気付きました。
自信があり、頑張っている自分を誇りに思い、色々な方に評価されてこその、経済社会人であると、思っています。これは、自分にとっては「名声欲」に他なりません。
問題なのは、「何によって自分は評価され、その評価が自分の志向とマッチングしているのか」という問いであるということを、改めて考えるようになりました。
選択肢のつぼみが複数ある現在、今度は「自分の志向」を本気で追求する必要が出てきています。
それは自分を高く売ることなのか、楽しい仲間に囲まれて幸せで自由な時間を過ごすために、少々の犠牲を払うことも厭わない心なのか。
人生がまた楽しくなってきました。
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某ネットワークの方との懇談での共通解。
それは、あくまで『自分らしく』ということ。これでお金が取れれば、言うことはない。
具体的には、脱営業、そしてマーケティングへの転換を目指すステップが不可避であるということらしい。
経済社会人が「責務」として陥りやすい感情が、「MUST」の脅迫的概念であるとすれば、今の時代がどれほど病んでいるかを想像することはさほど困難なことではない。
業として、人格を保つことは常に「MUST」との戦いであるのかもしれない。
しかし今、その「MUST」自体の根拠を疑ってみようとする想像力が、市場を創るのだと推論したとすれば、経済社会人の希望は無限大のものとなるだろう。
でもって、その希望を呼び覚ますためには、「MUST」を「WANT」に変えていくことが求められるのではないか。
そのためには、何が障壁になっているのか・・・・
・やばいと思いながら、それを妥協して継続してしまうという習慣。判断力・ことなかれ主義
・面倒くさい、横着に思うこと。
・今、あともう少しやるべきことを、やらないで放っておくこと。
・地味な作業、面白くない作業をいかに手抜きができるかを考える習慣。
・無意味な気後れ。
・煙たがられることへの恐怖。
・人のせいにする。
・虚栄心
これらの妥協、怠惰、責任転嫁、脅迫的自意識の集積が、「MUST」の正体なのでありました!
これらを片付けないと、後後に重大な困難が積み重なって、あとは逃げるしかない状況が生まれることになります。
しかし、それらの要因の排除は、簡単そうで、難しい。
なぜなら、「MUST」を迫られる課題は、すべて「悪い選択はしていない」という客観的な不可抗力とともに訪れることが多いからです。
だから、その不可抗力の見極めがいかにできるかが、大切なポイントになってくる。それができないと、常に「逃げるか否か」という状況においこまれることになる。
では、こうした「逃げるしかない状況」に自らが追い込まれた時には、どうすれば良いのか。
実は、この解はない(笑)。
それが、懇談での結論でした。
「あくまで、自分らしく」・・・でいくしかないようで。
おいおい助けてくれよ(泣)・・・
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車検が近づいてきて居ます。
今乗っている車、もう10年かなあ。ガソリンタンクが壊れたり、ドアが壊れたり、あ、そうそう、思い出すのが前職の時に名古屋出張の時にタイヤのボルトが外れたり・・・。同乗したF編集長には本当にご迷惑をお掛けしました・・
で、その車。「三菱エメロード2.0スーパーツーリング」
走行距離にして、9万キロ。
でも、今でも、全然元気な車なんですよ。
確かに、上記のようなトラブルはあったものの、エンジンは相変わらず、ガンガンに生きている!
高速での余裕の走り、どら焼きのような愛らしい風貌・・・なんか、だんたんと愛着が沸いてきちゃっているんです。
でもでも、またまた修理箇所が発覚。ワイパーと、運転席横の雨よけカバー??(正式名称わからん)
雨が降っている時窓を開けると、水がどんどん侵入してくる~
それと、時たまエアコンの異音。これはタイミングベルトを交換して見たものの、ダメ。エメロード様の機嫌の悪い
時には、ピリピリぴりと変な虫の鳴き声のような音が発生するんです。で、今、悩んでます。
修理費で、だいたい2万円~5万円くらいかなあ。
買い替えで、欲しい車もあるし・・・・
廃車の時には、ちゃんと供養してあげるつもりです。なんだか、悲しいなあ、意外とこういう悩みって、ダメージあるんだよなあ。。クスクス(泣)
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ところで、最近は忙しい。
忙しいことが、まるでヒマだと思うくらい、忙しい(笑)。
でも、雑文・駄文は相変わらず書いています。
そこで、今日は最近の更新サボリを反省して、禁断の過去帳からの拾いモノを掲載します。
今まで仕事の合間に書き溜めておいた「慎ちゃん★ユリシーズ??」の断片を公開してみようっと!
小説にしては短く、ブログにしては長い。
だけど、そんなことよりも、いつも死生観とか偉そうなことを言っている私の心の奥底を、自分でも覗いて見たくなり、下記のような文章になりました。
★ ★ ★ ★ ★
『摂理』 2001年8月
明日邦彦は40才の誕生日を迎える。陽子は26才で、ペットショップの店員をしている。日常は悪いことばかりではないが、結婚を急ぐようにと親戚とか親とかに急かされているという立場らしい。
「らしい」というのは、それが本当に急かされているのか、それとも親戚や親は外交辞令として、世間一般の慣習とか常識に従って、ただ自然と悪意もなく陽子に言っているのかもしれないからだ。
ただ、陽子は「急かされて困っているのよ」と何の臆面もなく、それも嬉しそうに言うものだから邦彦はその点が納得いかないし、果たして陽子が自分に対して何を言おうとしているのか、その真意を探る必要を感じてはいるのだ。
「私たちは、今から1時間後に一緒に死ぬと決めているのだけど、例えばあと30分経ったら、残り30分になるわけでしょ?その時、どういう気持ちになるのかしら」
「死ぬことによって、確実に僕らの意識はなくなるわけだよね。実感が沸かないな。今だって、なぜ死ぬかと言われれば、この先の有意義に生きるために死ぬ?明日への希望のために死ぬ?そんな感覚なんだよね。だけど、死ねば意識はなくなるわけだから、今僕らが思い浮かべているような未来を確認することはできないよね。どうするか」
陽子は立ち上がって、崖の下の道路に視線を落とす。
「死ぬことが出来れば、何でも出来るって言うじゃない?実は私はその感覚を知りたいのよね。何度も確認して悪いけど、私たち、あと少しで死ぬことになってるじゃない?そしたら、もう何でも出来るのだから、例えば今ここで私が服を脱いで、素っ裸になって恥ずかしい言葉をたくさん叫んだって、恥の概念はあり得ないはずなんだけどさ」
「できるのか?」
「出来ないわ。どうしてでしょう?」
邦彦は頭を掻いた。一瞬陽子の裸を想像した。そして頭を丸坊主にして、全身を露出しながら渋谷の街頭をゆっくりと歩く姿を思い浮かべた。
「恥は生への執着そのものだよ、だから、それが出来なければ君は死んじゃいけないってことだと思うのだが・・・」邦彦は冷静に呟き、さらに続ける。「靴を揃えて、遺書を書いて、死ぬという人は、生への執着が人一倍強くて、それゆえに存在していること自体の恥辱・屈辱に耐えられない人だと思うんだよ」
「でも、それは生への執着というよりも、むしろ『申し訳ない』という気持ちの表れじゃないのかしら。誰かに謝罪したいという気持ちなのよ、それは」
「いいや、だけど本質は生への執着だと思うよ。謝罪の気持ちもつき詰めれば、死んだ後まで恨まれたくない、そして苦しい生から解放されて楽になるという希望と同時に、亡き自分のイメージを生かしておきたい、ということだから、つまり楽して同時に自分が本来あるべき姿というものを、勝手に自分でイメージしているんだ。そして後に残された生のイメージは、裸のストリーキングじゃダメなんだよ。つまり、これは生への執着以外の何者でもないだろう」
陽子は怪訝な顔をして邦彦を見る。邦彦はまだ何か言い足りないような、だけど殆ど自分の言いたいことを言い終えたような、そんな雰囲気で座っている。陽子は思いついたように話始めた。
「病気に苦しんで、自ら命を捨てるという人はどう解釈すればいいのかしら。もう本当に、体がきつくて辛いし、痛いし、しかも先が見えない」
邦彦は1分間沈黙した後、ボソリと「それだって、極論すれば生への執着だと思うし・・・」と言った。
陽子はさらに怪訝な顔をして邦彦に詰め寄る。
「どうして?痛みと苦しみに冒された生に絶望したから、死ぬのではないの?」
「うん。つまり、絶望してるわけだよね。絶望って、本来自分がこうあるべきだっていうものと、現実とのギャップがもはやあらゆる手段を使っても埋められない時に、感じるものだと思うのだよ。そこに物理的な痛みがない場合、人間には逃避という能力があるから、とにかく逃げることができる。哲学とか文学とか、そうだな、仕事にしたって経済にしたって、結局自分の目の前にある埋め難いギャップから逃避して、そして別の角度からそれを埋め合わせる代用作用みたいなものだろう。つまり、あらゆるものから、自分が楽になるために、みんな命を落としてまで仕事とか芸術とかに自分を賭けるのではないの?結果として、それが体力的に楽じゃなくても、大怪我に繋がったりしたとしても、本人にとっては楽になれるという希望の下に行動する過程が大切なのであって、結果は神のみぞ知るみたいな」
「だけど、何か納得できないわ。痛みに冒されて死んだ人が可愛そうよ」
陽子が邦彦の方に顔を寄せる。まるで海辺の午後をくつろぐ恋人同士のように見える。
邦彦は陽子の頬を撫でながら、微笑んで囁く。
「最後は、いずれにせよ、受容するしかないんだろうな、それは。受容の域まで導いてくれるのは、自分の精神か、偉大なる牧師か、最愛の人か・・・それはわからんけどさ」
もう30分が過ぎた。陽子の顔がだんだんと夕日に照らされて赤みを帯びてきた。うっすらと肌の産毛が夕日に照らされて、邦彦はそっと陽子の髪の毛を撫でて見た。
「いよいよあと30分ね。私たち、あと30分で死ぬのよ。まだ信じられない」
「そうだな。思ったより、実感がない。感慨もないし。だけど、その「死ぬ」という事実に対して、自分がどのような理由付けをして、その結果死を選択したという合理的な理由を最後の瞬間まで探すことが、これから30分間の僕たちのすべきことだと思うのだが」
そして20分が過ぎた。風は止み、見慣れた日常の夕暮れが二人を包む。邦彦は少し腹が減ってきた。死を眼前に手繰り寄せようとしているその時でも、意外と冷静でいられる自分を発見している今、それは極めて自然の摂理であると、邦彦は解釈した。
邦彦に対し、陽子は少し緊張しているようだった。邦彦は陽子の右腕を取り、脈拍を見る。そして少し青ざめた横顔を見た。陽子の表情には、「どうして死ぬ必要があるのか」という、根源的な問いを腹に溜めていそうな雰囲気が感じ取られた。
「言いたいことがあるんじゃないか?何でも言っておいた方が、いいと思うよ」
邦彦は語りかけると、陽子は咄嗟に口を開いた。
「私は、今まで色々な所で結構可愛いと言われたし、女としては良い人生を送ってきたと思うのよ。何不自由もしていないし、両親だってまだ健在だし、これといって死ぬ理由なんかないのよ。だけど、そんなに死ぬということが怖くない」
邦彦は意外に思った。
「はは、僕は死ぬのはとても不安だよ。それは、なぜか。死にたくないからだよ。もっと生きていたい。でも、どうし生きていたいのか。楽しいことをしたい、怠けたい、支配したい、そう思う自分がいる。だけど、時を支配することはできない。僕らは必ず最期がある。だけど、そんな人間が死ぬという必然に向けて、どれだけ濃密な時間を過ごせるかを考えると、それはやっぱり死ぬことを考えるということしかないんだよね。死の恐怖、生の恐怖について必死に考える。そして、結論をだすためには目標が必要だろう。リアルな目標として、自分の死の時間を設定して、それをタイムリミットにして自分の死とは何だろうってことを考える。だから、僕はそれを設定してからと言うもの、今まで経験したことのないような生の充実感を感じるし、あらゆる不安からも解放されるようになったんだよ。だから、僕が生きるためには、自分で死ぬ時を選択することが必要なんだ」
「邦彦君は現在の世界情勢とか、支配者がどうのこうのとか、そんなことばかり言っていたよ。こんなことになっちまうとは、俺も想像してなかったよ。分からないもんだよね」
邦彦が死んで3日後、陽子は高橋編集長を訪ねた。高橋編集長は缶コーヒーを出して、陽子に薦めながら汚い編集室の応接で向かい合った。
「彼は私に『最後のタバコを買ってきてくれ』と言って1000円札を渡したんです。私はコンビニに行って戻ってくると、崖の下の道路に車が4・5台止まって、「どうした」「大変だ」とか少し騒ぎになっていたんです。彼は、私を置いて先に崖下に飛び降りてしまったのよ」
「そうだったのか。結局さあ、邦彦は何で死んだのか、分からないわけだよね」
高橋編集長は突き出た腹を掻いて、続ける。
「ただ言えることは、邦彦は『生』を自分だけの問題として捉えていたったことなんだよね。それは、彼の作る記事や取材の方法を見ると、明らかだよ。『生』は自分だけのもんじゃない。彼がここに存在することによって、俺が生きるし、陽子さんも生きる。人の生命は、社会的なものである、ということだな」
「私が分かったことがあるの。それは、どうして邦彦があなたとソリが合わなかったか、ということよ。規範とかルールが嫌いな人、それが邦彦」
「職場ストレスってやつか?俺が殺したみたいな言い方だな」編集長は苦笑いした。
「俗な言葉ね・・・」陽子も笑う。そして続ける。
「・・・・でも、生を自分だけの問題として捉える、って高橋さんの分析は、合っているような気がするわ」
「そうだろう」誇らしげな高橋編集長。
「ただ、『社会的』っていうところが、あなたの限界だと思うのだわ」
「・・・・・」
「死は、残酷だし、想像すると楽しいことだってあるの。あんな素敵な人が、残酷な死に方をする、理不尽な目に遭うっていう想像は、時に人間の生命の活力になったりするのよ。そうして、自分の『生』と他人の『死』を比較して、自分の身の置き所を探すように、私は生きているのかもしれないわ」
「・・・・・」
「きっと、あなたが一番喜んでいるはずよ、邦彦の死を。でも、私はそれは間違っているとは言わないの。だって、とても悲しいはずの私の心は、なぜか躍っているのよ。どうしてかしらね」
嬉しいのか悲しいのか、分からない胸の高鳴り。それでいて、この先、邦彦と死を共に出来なかったという、事実を、自分の中でどのように整理を付けて生きていくべきなのか。
否・・死んで行くべきなのか・・・・・
★ ★ ★ ★
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☆告知☆
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)からのお知らせです。
明日、あーすぷらざにて綿井健陽第一回監督作品「Little Birds イラク戦火の家族たち」が上映されます。入場無料です。なお、写真展の方も開催中です!

(写真=『世界の戦場から』写真展の紹介ページより引用させて頂きました)
7月29日(土) 13:30~15:50
映画上映「 Little Birds イラク戦火の家族たち」
【 入場無料】
ロカルノ国際映画祭をはじめ数々の賞を受賞した映画「リトルバーズ」を通してイラク戦争について考えます。「戦前・戦中・戦後」と人々の生活の何が変わったのか?そのうちの何が私たちに伝わり、何が伝わらなかったのか?
会場:あーすぷらざ 5F映像ホール
http://www.k-i-a.or.jp/plaza/
JR本郷台駅下車すぐ
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最近では、以前の会社在籍時と比べて、「取材」というのではない、「企画提案」メインの外回りの時間を割いています。自分をセールスしている、といったところでしょうか。
そう、「自分を売る」ことに本気になって来たんです。
これは、多分自分の中では、「進化」と捉えていいことなんだと思っています。
住宅業界の現在の動きについては、自分自身がメディアとしての戦略上の行動や企画を司る立場になってきいるので、あまり詳細に記すことができないことが残念です。
理念や理想を掲げる仕事であっても、やはり利益と実績を慎重に積み上げてくことが必要です。
いい加減な企画は通らないし、逆に一回通って任された企画は、
・期限どおりに
・売上目標を立て、
・しかも、自分の理想とする「自己表現」を捨てずに=ここが重要!!
でもって、迅速に実行して行く行動が求められるのです。
転職当初は、「売上目標」といったものに対しては、正直言ってアレルギーがありました。
しかし、実際に期限と目標を立てて物事を遂行し、それが達成できたときの喜びは、自分にとっての新しい発見でもあります。
もちろん、リターンも相応のものが、あります。正直、成果を実感できるということは、嬉しいことです。
自分の理想・理念を捨てずに、それを分かってくれる人々が、この業界にはまだまだ未知の領域にたくさん存在するということが、分かってきました。それを探して発見し、人間関係を築いて行くことの楽しさを、今実感しています。
そして、もっとも大切な事は、「モチベーション」です。
先の見えない努力・苦労、そして組織の中で浮いてしまったり、足を引っ張られ評価も金銭も反映されない組織では、ダメなんです。
以前の僕なら、組織が腐っていても、結局自分を責めていました。「努力が足りない」「モチベーションは環境で決まるものではない」といった、自責の考えです。
しかし、それは、少し自分に厳しすぎたのかな、とは今では考えています。
やっぱり、努力は正当に評価・批判されてこそ、できるものです。
また、モチベーションは、そうした活発な組織、個人のやる気に最大限の支援をしてもらえる組織の中でこそ、生まれるものです。
超人や天才でない限り、不満のある環境に毒された生活をしていると、いつまでも自責の念から脱却することは難しい。
まだまだ勝負はこれからです、しばらくは更なる進化を続けたいと思っています。
でも疲れた~ああ休みたい(笑)・・・
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参りました。
極めて個人的なことですが、今日、叔母が亡くなったという連絡が入りました。
倒れたのは一週間前、ある程度覚悟はしていたのですが、いざ現実のモノとなると、不思議な感覚です。
年齢とか歳月とか、幼い頃の思い出とか、そんなものが去来して、人間の現実というのはとても残酷なものだということを、実感しています。
今は夜中の二時なんですが、夏休みに海に連れて行ってもらったこと、本を読むことの楽しさを教えてくれたこと、手作りの料理を作って食べさせてくれたこと、色んなことを思い出して、なかなか寝付けません。
考えて見れば、自分が25年前は、12歳。
その頃の叔母は、38歳。今の僕の年齢と、ほぼ一緒です。
12歳の頃なんて、自分にとっては、本当に昨日のことのようなんです。
その頃に考えていたことは、今と殆ど基本ベースは変わらない。
僕の自我は、12歳に原型が出来たのだろうと、今では思うことが出来ます。
自我が形成されてからの人間と言うのは、そこで時が止まるのかもしれない。
上積みするのは経験であり、感性は赤ん坊の時からの12年間で培養される。
その感性培養の頃に、育ててくれる様々な人たちとの出会いが、きっと、その後の人間の生涯の残酷さを背負わせるのかもしれません。
感性培養の頃に出会った人々、肉親、近親者、師・・・
いつかは、その人たちは、現実として去っていく。
僕にとっての「死」とは、やっぱり、伝えていくものだと思う。
自分がどう生きたか、どう意味を探求して行ったか、多くの人に語ることが、人間の役割だと、考えるのです。
生物学的な「死」は不可避な死であるが、人間関係における「死」とは、やっぱりその人たちの間で「生きることの意味を考え続ける」「死を受け入れるためにはどうすれば良いか」そんなことを自分なり語り続けていくことによって、貴重な生の実感を与えてくれるものだと考えるのです。
死生は同一。破滅は美。破滅があって誕生がある。残された家族には残酷なことだが、それはいつか自分自身にも必ず関わってくることです。
残された従兄弟には、僕なりに精一杯の愛情を注ぎたいと思います。
明日、君たちは、一人じゃない!ってことを、伝えてこようと思います。
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友を選ばば書を読みて
六分の侠気、四分の熱
与謝野鉄幹の記したフレーズは、僕にとっては今も不変の言霊です。
さて、今回は「友」がテーマです。
エレファントカシマシというロックバンドの素晴らしさを教えてくれたのは、「住宅ジャーナル」をやっている猿渡君と言う、僕の愛する友人でありました。
彼の生き方は、「こんな生き方でいいのかって、いつも考えるんですよ。だけど、考えようにも、勉強が足りなくて、その勉強というやつも、ただ図書館にこもって本ばかり読んでいればいいのかって言えば、そうでもないということは分かってるんですよ」って感じなのです。
そして、
「でも、本当にやりたいことっていうのは、自分が実は逃避をしていることの誤魔化しに過ぎなくて、だけども現実社会に適応して行くには妥協ばかりしている自分というのも腹が立つ」
っていう奴なんです。
「自分探し」とか「ひきこもり」とも違う、かといって「ポジティブシンキング」とか「前向きに明るく」というものは反吐が出るくらいに忌み嫌うべきものである、そんな価値観が、彼と僕とでは共有できる、今の僕にとっては、尊敬できる奴です。
思えば、彼からは色んなことを教わっている。今も、それは変わりません。
思い起こせば、かつて、僕はとても「切れやすい」人間でした(今でも本質は変わってませんが・・笑)。
特に、つまらぬ価値観をトウトウと語って悦に入る想像力欠如した馬鹿者や、「お前のためになる」的なお節介な微笑み面した似非モラリストといった人種と一緒に1時間もいれば、僕はすぐに
「お前の価値観をワケ知り顔で語るなよ、つまらん人間だな、貴様は」
などと発狂し、すぐに切れていました。
そんな僕に対して、彼は「切れたら、おしまいっす。切れたら、奴らと同じっすよ」
と言って、警告してくれたんです。
それ以来、僕は切れるのを我慢して、切れそうになると、彼に「いま俺は切れそうなんだけど、どうして俺は切れようとしているのか」という、メカニズムを説明して、「俺の切れそうな気持ちは納得できる合理性を持ったものなのかどうか。そして、それはもしかして間違っているのか、君はどう思うか?」と、教えてもらっていました。
そんな時、彼に教えてもらってのが、エレファントカシマシという、バンドだったんです。
彼は、決して媚びない。僕に対しても、絶対に媚びない。
だから、僕は安心して、彼にシグナルを送ることができるんです。
そう、「シグナル」。
エレファントカシマシの最新アルバム『街を見下ろす丘』のなかに、「シグナル」という曲があります。
この曲は、どうして泣けるのか。どうして心に響くのか。
それは、作者である宮本さんが、たくさん本を読みたくさんの俗物人生を経験し、たくさんの俗物と出会い、親の愛を理解し、世俗への風刺と皮肉を持ち合わせ、それでいて押し売りの悲しみを軽蔑し、人間であることの意味自体を再考し、生と死をニュートラルに捉え、(たぶん)夏目漱石を読み、その小説で描かれる俗人と無欲の友情とのコントラストを読み解いているからだと・・・・色々と、さっき帰りの電車の中で考えていました。
◆そして今俺は◆
今の僕は、非常に「俗物」たる世界で生活しています。それは、正直に告白しておかなければなりません。
それには、理由があります。
一番大きな理由は、自分が持つポテンシャルを確認したい、つまり、その俗物世界への対応力が、この僕にどれだけ備わっており、どれだけ耐えられるこことが出来るのか。そして、耐えられたと実感した暁の世界とは、どういう世界なのか。
そして、その世界を自分がどう捉え、どう処理できるのか。
そして、その世界を、どのような形で、自分のフレーズとして表出させることができるのか。それは、幸福を感じることができるのか、それとも、不幸であることを実感するのか。
すべてが、自分にとっては未知の世界です。
たぶん、それは自分にとって「覚悟」ということなんだと、思います。
最近僕が読みふけっているビジネス書や哲学書によれば、一般的に言われている「覚悟」は、意を決してやるのもひとつの手段だという記述が多いのだが、僕の場合は、そうじゃない。
「覚悟」は、自分のポテンシャルについて試すことから、だんだんと姿を変えていくものだと、捉えるようになってきました。
気づいてみて、少し振り返ったときに、「ああ覚悟が付いてきたのかなあ・・・」そんなもんだと、思っています。
しかし、これも、間違っているかもしれない。そして、悩む。
休日は、街に出る。そして、街を歩きながら、また悩む。
苦しさに耐え切れず、思わず叫びたくなる。そして、自分の滑稽さに、腹の底から笑いたくなる。
そんな生き様を、僕は自分自身に見せつけてやりたいんです。じゃなければ、生きている、という意味が、分からなくなる。そして、死ぬという必然を、きっと受容できなくなる。「人間は、狂った猿でもある」(懐かしの栗本晋一郎)。
そんな時、出会った曲が、「シグナル」という曲なんです。
「泣くな男よ泣くな。心に花咲かせる人であれよと・・・」と叫ぶ宮本さん。
この歌は、本当に、いい。「オールウェイズ三丁目の夕日」とかいう感動購買商品の10000億倍、涙が心に浸透する。
あっ、ちなみに僕はいつも思うんです。
それは、悲しみにハンカチはいらない。悲しみの奥にあるのは、共感の笑いであるはずだ、と。
だから僕と猿渡君とは、いつも意味不明の笑いが交差します。
生きるって、辛いよな(笑)。
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今日は転職後、初の休日♪
そこで街にでました。喫茶店でゆっくりコーヒーなんか飲む、とても幸せな時です。
そこで「夢を実験する戦略ノート」という本があったので、少し読んで見ました。
結構面白い本です。
多くの成功者が「たゆまぬ変化による恐怖心と、数多くの失敗」を恐れずに、それは「成長」のためには不可欠なものであるという認識を持って、常に自分を追い込んでいく生き方をしていることが分かりました。
そして環境を変えることと変化を受け入れることは、人間にとって実は大変な作業であるのだということも分かったのです。
今僕は、環境も役職も部署も何もかも変わり、まったく新しい方法で仕事をし、時間を過ごす毎日です。
それが転職2日目には、早くも戸惑いと焦りと恐怖心なんてものも、出てきたことを告白せねばなりません。
特に、「今までとは全然違うぞ、これは。この先、このままやって行けるのかな、俺・・・」という感情。結構、これはビンビンに腹に来ました。
そして、僕は考えました。
「これは、きっと試されているんだ、俺が」と。なんか、こう書くとキザだけど、本当にそう考えたのです。
この「不安と恐怖」をどう対処すべきか、重要な問題ですね。
実は、わかったことがあるんですよ、それは、対処の選択肢は、二つだということなんです。
これは、きっと普遍的真理だと、確信しました。
そして、それを確信した途端、僕の視界は一気に拓けたんです。
「やっていけるぞ、俺は!」と。それはもう、感動モノでした。
さて、その視界を拓いた対処法を記します。
対処法①「どうしよう、どうしよう・・・」と悩み続ける。
対処法②「どうして不安なのか」を考え、「その原因の克服」について、必死で悩む。
実は、この2つのうち、「俺はどっちを選択するのか」と考えたのです。
①を選択すると、ますます不安そのものについて、考えることになります。だから、絶対に出口は見つかりません。逃げてサヨナラ、ああ楽になった、よしよし。
しかし、②を選択すると、「その原因」を知ることになります。原因を知ったら、その原因を克服するための具体的手法について、どんどん悩んで行けば良い訳です。
でもって、僕は②を選択しました。
そして、「不安でなくなるためには、どうするか」という、「原因の克服」のための言葉を、ノートにどんどん具体的に列挙して行ったのです。
その具体的な言葉は恥ずかしいので、ここでは触れられませんが(いずれ記します♪)、ともかく、色んなことにチャレンジする、ということがその基本コンセプトとなって行ったのです。
具体的な方法として、一番効果があったことは、
『自分の生活習慣をすべて変えてみた』
ことです。
早起き、細かくて小さなことを丁寧にゆっくりやる、麻雀禁止、ゴルフも禁止・・・・(ただしタバコだけは継続)。
すると、結構、今まで見過ごしてきたことに、たくさん気付くようになったんです。
「時間ってこんなにたくさんあるんだ」とか、「休日ってのは、とてもゆっくり流れてるんだなあ」とか・・・
と、そこで、冒頭の書籍。
この本のメッセージは、まさしく「成長したかったら変化を求め、環境を変えろ」ということです。
それは、さしずめリスクを冒せと言っているのと同義です。
ずっと同じ環境にいれば、楽なことは間違いなし。ストレスも、たまらない。
しかし、それで良いのか。
自分にないものを持つ人物や環境と出会い、難しい状況の中で、自分がどのように航海して行くのか。
そして、粘り強く変化に対処することによって、自分の知らない自分を発見することができるだろう・・・
あああ、俺は37になって、初めて今、そんなことが分かった気がしています(笑)。
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この2日間が一週間くらいの長さに思えています。
(例によって、仕事の具体的情報については、まだ触れないことにします)
まったく環境が変わると、「時間」との距離感にまず戸惑います。
そして、自分の思い通りに振舞ってきた今まで11年間の蓄積が、体内にどっぷり染みついていることに、圧倒的に気付かされます。
いや、それは無駄だったとか、怠惰だった(ことも勿論ありますが、)とか言うのではなくて、これまでの「自分のテンション」に任せていたような慣習的なものを、一つ一つ破壊して行くことが不可欠である、と痛感したのです。
仕事の内容の把握、職場の全体像の把握、そして自分のモチベーションの持って行き方・・・そして自己中心的な考え方の見直し。
今、そんな「習慣」の金属疲労を徹底的に分析し、早く「行動」をして「仕事」をしたいと、焦るような気持ちもあります。
あ、ちなみに、「不安」と「恐怖」。
時折のぞくかせる、「逃げたいな・・・」。そんな気持ちも半分くらいあるんですよ、本音として。
同時に、なんとか期待にも応えたい、「だからどうやって期待に対して貢献していくのか」、という具体的な戦略作りについて、常に真剣に考えるようになりました。
でも、2日間が一週間分くらいに感じる、と記しましたが、この感覚は、以前の会社に就職した時の感覚を思い出させるものです。いくら「経験」があろうと、関係ないし、むしろ「経験」が習慣となっているため、逆に慣れるために、以下のプロセスとなるのです。
新卒未経験 真っ白→不安→慣れ→結果
経験中途入社 予測分析→不安→今までの習慣との調整→慣れ→結果
今日からはひとつテーマを持って、取材の折りにでも、中途でしかも経験者の方々、そして業界の方々に対しても、色々と自らの経験された話を聞いてみようと思っています。
× × × × × ×
さてさて、話は変わりますが、実は転職前から心がけて来たモノがあるんですよ。それは、「早起き」なんです(笑)。
えーーーー、当たり前だろ、そんなの!とか言わないで下さいね(笑)。
何せ、僕はまともな社会人ではないんですから。
でも、少しでもまともにする必要がある。自分の習慣を変えるための、まず一番身近な方法は、夜更かしせずに朝に読書や仕事の企画を練る、ということなんです。
これをやり始めてから一週間、俺らしくもない朝5時起床が続いています。
この取り組みのメリット
・前の日のつかれが残らない→ともかく夜は10時過ぎるとだんだんと眠くなるので、理由なく寝られる。そのため疲れとかストレスをその日のうちに処理できるようになった。
・読書量が増やせる→静かでだんだんと明るくなっていく空を見ながら、本を読む幸せ。
・時間が貴重に感じる→無駄な時間はないのだ、ということが実感。
デメリット
・それでも朝はやっぱり眠い・・・
・夜遊びの自粛で淫靡な楽しみがない。
どうでしょうか。
同様なご経験、または同様な立場の方には参考になられたでしょうか。
もうしばらくしたら、「ゼロから始める転職--今迷っているあなたへ」とか言う本が書けそうです(笑)。
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今日は初出社でありました。
不安半分、ワクワク感半分、そして勉強半分、充実した一日でした。
当面はあまり具体的で立ち入ったことを記せませんが、今はとてもデリケートな時期なので、その点はしばらく大目に見てください(笑)。
さて、今日、多いに学んだことは、「こだわり」について。
今までの自分の「こだわり」を意図的に無にすることで、逆に広い視野を持てるんだ、ということです。
これは、惰性と長年の経験則に浸かって生きている時には、決して気付かないことだったと、思いました。
ほんの小さい事(それは歩き方とか姿勢とかネクタイの色とか、そんなレベル・・・)から、「企画」というものの考え方まで、緊張の中で見直していくという心の作業が、とても大切なものなのだと思ったわけです。
何せ、身だしなみで手鏡を見た(爆!)なんて500年ぶりのことなんだから~、いかに緊張感を持っていたかということですね。ああ俺らしくない・・・キモッ悪い!
ただ、それは決して楽なことではありません。
だけども、新しい自分へと脱皮して行く上で、不可欠なことなんだと、今ずっと考えています。
どんな自分になれるのだろうか。
そして、それは同時に、自分の思い通りになるような「こだわり」ではなく、他者(クライアント)の「こだわり」を引き出して上げられるような、そんなものにしたいな、なんて思ったわけです。
訳の分かんない話をしてしまいました~
× × × × × ×
あ、ところで、全然話は違いますが、今日も日刊ゲンダイの連載は続いていました。
今日は「パッケージ野菜」の話でした。
これも、おそろしや・・・の世界です。
今日は眠いので、もう寝ます。
続きは、また明日♪
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日刊ゲンダイで今、面白い連載が続いています。
『元トップ営業マンが明かす食品添加物の現場』(安部司)という連載です。
1月26日付9面、「回転寿司の数の子もどきイクラもどき」というタイトル。
これによると、イクラが本物かニセモノかを見破る方法が書いてあります。
記事に書いてある方法によると、イクラに熱いお湯をかけてみる。すると本物のイクラは白く濁り、ニセモノは濁らないらしい。
また、ライターで焦がしてみても分かるそうです。本物はツメを焼くようなにおいがして、ニセモノは木綿を焼くようなにおいがするそうです。
その理由は、本物がたんぱく質で出来ているの対し、ニセモノは炭水化物で出来ているからなのだそうです。
ちなみに、ニセモノイクラの作り方まで書いてあるから、ビックリです。その手順が、次のように説明されています。
①「アルギン酸ナトリウム」という昆布から抽出した添加物を用意する。
②それを「赤色102号」、「黄色5号」で朱色に染める
③カルシウムの溶液に一滴ずつ落とす
すると、瞬時に赤い粒ができるというのです。さらに、
④その粒の中に魚臭い調味液と真っ赤に染めたサラダ油を閉じ込めてイクラの目玉を作る
これでニセモノイクラの完成だそうです。
味も外観も、素人にはまったく分からないそうです。
ひえー、ってことは、俺回転寿司で殆どサラダ油を食ってたったわけか~????
ゲゲッ・・・
なんだか、ウソのような話だけれど、今度寿司屋で真贋見極め方法、そっと実験してみたいと思います。